みなさん、こんにちは。
のりそらです。
私は、『教育に選択肢を、人生に革命を』を経営理念に、
教育目標を『明日も行きたくなる学校』すなわちNEXTAGE SCHOOLとした次世代の学校の運営をしています。
ここでは、教育に関わるテーマを1つ挙げて、それについての考えを共有しつつ問題提起を行っています。
さて、今回は、不登校支援をしていて思うことについてお話させていただきます。
本日の内容:いわゆる不登校、否定しなくていいじゃない
題して「【教えて、のりそら先生 】いわゆる不登校、否定しなくていいじゃない」といった内容でお届けします。
日頃、不登校のお子さんを指導させていただいています。
そこでの日々は学びの連続です。
前回、”印象と実際”というお話をさせていただきましたが、ここでも”印象と実際”というものが確かに存在していると感じます。
今回は、実際のいわゆる不登校支援を通して感じていることについてお話をさせていただきます。
今回このお話を聞くことで、いわゆる不登校支援から学べることについて理解することができます。
ご自身の知見を広げたいとお考えの向上心のある方々、いわゆる不登校と呼ばれるお子さんが、生徒さんが身近にいらっしゃる方々、教育に関心のあるすべての方々に向けてお話をしていきます。
どうぞお付き合いください。
それでは、いってみましょう!!
誰が名付けたか いわゆる”不登校”
不登校という言葉は、よく知られている割には、比較的新しい言葉で、
Wikipedia先生によると、
「不登校とは、学校に登校していない状態のことである。登校拒否とも称される。日本における「不登校」の語については、研究者、専門家、教育関係者らの間で全国的に統一した定義が無く、極めて多義的である。」
としている。
多義的とは、すなわち、てんでんバラバラに使われているあいまいで不明確な言葉という意味です。
しかし、実際にはこの言葉の起源も、本来の定義も明確であったのだそうです。
1968年日本児童精神医学会、思春期精神医学のシンポジウムで精神医学者清水将之さんが使ったのが始まりで、その時きちんと定義づけがされていたのだそうです。
「さて、子供が学校に行かないという現象は、どのよなことを意味するものであろうか?諸疾患のための就学不能、親の無理解や貧困による不就学、非行などが原因となっている怠学などを除外したものを一括して不登校(non-attendanncde at school)と称する。」としたのです。
しかし、その後言葉は一人歩きして「きわめて多義的」なものに拡散してしまったというのです。
先程述べた以外の理由による学校に行かない現象が起きたため、それに対して新しい呼び名が必要になったということなのです。
1960年代の初めに、
「病気でもなく,利発でまじめで礼儀正しく、身なりも上品で、家庭環境も良く、学校でいじめとか人間関係でいやなことがある訳でもなく、勉強も好きで、成績もよく、本人も学校は楽しく好きで行きたいと言っているのに、でも朝になるとなぜかどうしても行けない」という子どもたちが現れてきたのだそう。
上記のような、従来の経験や考え方では説明がつかず、理解困難な「欠席」の形が出現すると精神医学に答えを求められ、そこで精神医学から「不登校」という呼び名がつけられ、上記のように定義がされたのである。
ここでは、病気が原因であるものは除外されるので、不登校は本来的には病気ではないことになりますが、本人や周りがそれに悩み葛藤が生じ生活に支障が出るので、不登校は病気ではないかもしれないが、児童精神医学の中心的なテーマになっていったのでだと言います。
文科省の定義
文部省は、理由の如何を問わず、継続的であれ、断続的であれ年間50日以上学校を欠席するものを長期欠席」と定義していたが、1991年に週休2日制になると年間30日以上に変更しました。
そうして、何であれ長期に学校を休んでいる状態を「長期欠席」と呼ぶことになったのだですが、その中で、本人であれ、周りのものであれ、そこに悩みや不安、葛藤が生じているものを「不登校」とするのが良いのではないかとする考えが出てきました。
なぜなら、不登校とはもともと精神医学から生まれた臨床の概念であり、臨床とは、ある事態が何らかのケアを要するケースとみられたときに、それにかなうケアを行う行為を言うので、「長期欠席」でも、どこにも悩みも不安も葛藤ももたらさず、万事うまくいっていれば、ことさら「不登校」と名付けて医学化する必要がないからです。
ただその長期欠席が明らかな病気からもたらされているものは、不登校とは言わないことになっています。
「肺炎で学校を休んだ、長期欠席した」と言っても「肺炎で不登校した」とは言わないのは、これは清水の最初に定義したものと同じで矛盾しない。
微妙なのは心理・社会的な失調の時で,「対人恐怖症で不登校になっている」「不安障害による不登校」とは言えることになります。
その違いはどこにあるのでしょうか?
学校教育という営みから全く離れた別の要因から生じた欠席は「不登校」とは呼ばない。
最初の定義で外された貧困による欠席も教育とは直接関係が無い経済問題だから不登校ではないとなる。
では最初の除外要素の「怠学」はどうかというと、これは自分の意志で確信犯的にさぼることで、悩みや葛藤が生じていないので不登校にはなじまないことになります。
従って「不登校」を除外診断ではなく、直接的に定義すると、
「学校教育という営みにはらまれる何らかの要素との関連において長期欠席が生じ、そこに悩みや不安、葛藤が生まれているもの」
となる(滝川一廣)となっています。
不登校は、学校教育という営みにはらまれる何らかの要素との関連という意味合いで、教育問題ともいえるし、同時に「悩みや不安、葛藤が生まれている」という側面からは医学的な臨床問題ともみなされることになるわけです。
不登校研究の長い歴史の中では、この欠席現象を教育問題とみるか臨床問題とみるかで、意見対立が起きてきたようですが、どちらの問題でもあるというのが正しい理解であるということのようです。
個人的には呼び名に違和感
難しいことを書き連ねてきました。
その上で、私が感じている違和感・・それは、”不登校”という呼び名です。
先程の難しいことにあったように、”不登校”という呼び名は、医学的見地から誕生している模様ですよね。
お医者さんが隠語的に使うのであれば何の問題もなく感じますが、その後の多義的な広がりには対象の子どもたちのことを考えた転用とはなっていないように感じています。
そのため、私は一貫して『いわゆる”不登校”』と呼ぶようにしているのですが、細かいですかね?
もし、自分が”不登校”というくくりで語られると、少々寂しさを覚える気がするのです。
何ていうか、そこには”不”という文字がある以上、否定的に見られている感じがするのです。
実際の姿は、”何らかの事情があって学校に行っていない”であって、”何らかの事情があって学校に行けていない”とわざわざ否定的な言葉を向ける必要がないのではないかと思うのです。
ですから、ネーミングなんて必要なくて、便宜的にくくりが必要なのだとしたら、”多様登校”みたいな感じで良いのではないでしょうか?
『なんか、馴染まないなぁ』
そんな声が聞こえてきそうです。
いいんです、ネガティブな言葉が入っていなければ。
きっともっと良い呼び名があるはずで、これについては宿題とさせて下さい。
言いたいことは、何らかの事情がある子に対して、言葉が優しくないということです。
現場の実感
日々、”多様登校”、いや、いわゆる”不登校”のお子さんと関わらせていただき思うことは、通常の学校に通っている子たちと本質的には何も変わらないということです。
ただ、何かのきっかけで現状として学校に行っていないだけで、たとえ学校に行かなくても、大人になって生活していく上で必要なことを別の場で養うことは可能だということです。
”多様登校”、いや、いわゆる”不登校”のお子さんの中には、もはや学校に行かないという選択をしている理由さえ自身の中で明確になっていない子もいます。
何となく、あの環境に馴染めない、フィットしない、違和感を覚えるような子もいます。
多様な考えを認める社会を築いていくことこそ、日本の進むべき道と考えるのであれば、教育事情がもっと柔軟であって良いのではないかと思います。
マイノリティーかもしれません。
でも、性的マイノリティーをはじめ、あらゆるマイノリティーを受け入れる社会を築こう、という風潮もありますよね。
子どもたちの世界でのマイノリティーに対しても優しい社会的環境が整ったら、現在のいわゆる”不登校”の子たちだけでなく、苦しいながらも学校に通っている子どもたちにも救いの手が差し伸べられるようになると考えます。
私の考えが絶対的に正解だ、なんて言いません。
言いたいことは、誰かがこのいわゆる”不登校”をめぐる後ろ向きだったり、対応が不十分だったりする現状と向き合わなければ結構たくさんの子と向き合うことができないままになってしまうということです。
誰がやるの?
私がやります!!
ですから、力を貸してください!!
私がやります!!
ですから、応援して下さい!!
この発信が、心あるどなたかに届くことを願って、今回の内容を閉じたいと思います。
まとめ
さて、今回は、「【教えて、のりそら先生 】いわゆる不登校、否定しなくていいじゃない」というお話をさせていただきました。
役割分担をしていけばいいじゃない、とも思います。
こうしてNEXTAGE SCHOOLの運営をしていると、結構多くの方が我々の活動に関心を寄せてくださったり、その必要性を共有してくださったりしています。
みんな想いはあるのです。
だから、想いを形にできるように、我々のようなところが地道にやって行く姿を見つけていただくことが必要かな、と思っています。
子どもたちは、日本の宝です。
その宝のすべてを大切にできる社会になることを望みます☆
私のりそら、日本の、世界の学校の未来がより良いものとなるようこれからも発信していきます。
加えて、これまでのように先生方の日頃の頑張りを世の中に伝えていきたいと思います。
先生方は、どうか日本の子どもたちのために、目の前の子どもたちのために、真っ直ぐにエネルギーをお使いください。
私のできることはさせていただきます!!
のりそらからは以上です!!
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